街道遍路

歴史街道・史跡探訪ピンポイントガイド

東日本大震災被災地 三陸リアス散財ツアー

 5月に東北の被災地に行って、ショックで逃げるように帰ってきた。
 今度は逃げないぞという覚悟をもって再び、被災地にのぞんだ。出立前、妻からは2万円を託された。しっかり散財して被災地の経済に貢献してくるんだよ、と。


 3000人という最大の犠牲者をだした石巻に行ってみると、整然とした地方都市の姿に拍子抜けした。全国のどこでも見る大型電気店、ファミリーレストラン、紳士服店がふつうに営業していた。ガソリンにいたっては、小田原よりも安い。住みやすそうな町だった。
 そもそも町が大きすぎて、単身、どこに乗り込めば支援活動に参加できるのか分からなかった。新聞やテレビで前日まで見ていた石巻の姿とはぜんぜんちがう。石巻とひとくちにいっても、市町村合併で巨大化した町には、いろいろな顔があることを知った。
 もっと身近に、というか身の丈にあった支援活動ができる場所はないかと、こじんまりとした被災地を求めて北上することにした。
 山を越えて南三陸町に向かう。今回の震災で町名が知れ渡った町だが、僕にとっては昔の名前のほうがなじみがある。学生時代にオートバイで通った歌津と志津川という美しい名前の町。
 山あいの道は「被災地支援」のトラックや車両で混んでいる。峠を越え、ゆるやかな下りにさしかかったとき、森の色が変わった。茶褐色に立ち枯れた木々が帯のようにのびている。海など見えない山の景色に、唐突に漁船や瓦礫が立ち現れた。
 まさかこんな山まで津波が駆けのぼってきたのか。にわかには信じがたいことだった。
 山を下るにつれ、扇状に谷の幅が広がり、瓦礫の積み重なりもひどくなっていた。クルマなど元の形が分からない。視界がひらけ、もとは町だった場所が現れた。
 大型スーパーなど建物の形状を残して立っているものをのぞけば、一面に褐色と白のちぎり絵を敷きつめたような荒涼とした区域。
 人の姿といえばヘルメットをかぶり、重機をあやつる人たちだけ。
 ぼんやりしているうちに町を通りすぎてしまった。立ち止まることもできなかった。
 そこからいくつもの全壊した町を通りすぎた。だんだん感情がなくなっていく感じがした。



 気仙沼、陸前高田もまわった。
 気仙沼はまだ町の機能が残っていた。大型スーパーとファミリーレストランは休店していたが、カッパ寿司が営業していたのがなぜか心を明るくした。
 陸前高田は町がまるごと消えていた。ここで実際に役立つのは重機の免許を持っている者だけだ。
 被災の現場では、のほほんと単身でのりこんだところで、何もできないことが分かった。
 おそらく今、人力支援が必要なのは被災地から離れた仮設住宅の方だろう。支援者の拠点も内陸の方にできていると聞いた。


 このところ、ともすると震災関連記事も読み飛ばすところが多くなっていたのだが、家にもどってから、ひとつの記事、ひとつの写真に、真剣な現実感をもつことができるようになった。
 何ができるのかを考える。けっきょくいつも何もできないのだが、何かしようと忘れず思いつづけよう。
 現地で僕が感じたのは、被災者は生活を立てなおす段階に移っている。義援金やボランティアもまだまだ必要だろうが、永遠につづくわけではない。今後、重要となってくるのが、生活を失なった人たちが自分の足で立ちあがれるような東北経済への継続的な応援ではないかと強く感じた次第である。
 スーパーで三陸産の乾燥わかめを見つけた。値段をみたら、いつも買っている中国産の3倍の値段に驚愕し、棚にもどしかけた。が、南無三と念じて買い物かごに突っ込んだ。