街道遍路

歴史街道・史跡探訪ピンポイントガイド

「熊」世界史上最悪7人殺しの集落(前編)

 稚内で台風上陸をやり過ごした僕は、翌日、日本海側を下って走った。
 初夏に北海道に来た折も台風のために数年ぶりに死者が出たばかりだったが、そのときに、摩周湖近くの温泉宿であるグループと出会った。彼らは日本海側の苫前(とままい)というところから毎年一回、この温泉に泊まりにきているということだった。よく覚えていないが、ヒグマの研究会だか、ハンターの会だか、確かそんなような集まりだった。彼らの話だけは鮮烈に覚えている。

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●苫前町郷土資料館にて撮影。苫前といえば、熊史上最悪の三毛別(三渓)事件が起こった場所だ。
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●三渓事件が起こった六線沢開拓使の位置関係図。黄色の円がヒグマの侵入を受けた農家。14戸のうち10戸がやられている。恐るべき執着心を持った熊だ。×印はヒグマの射殺地点。(木村盛武『エゾヒグマ百科』)

 初冬の苫前で、熊に襲われて死んだ女とその子どもがいた。子どもは部屋の中で死んでいたが、女の方は裏山まで引きずられ、そこで食い荒らされた無残な姿で見つかった。二人を襲ったヒグマは、体重340キロの黒褐色の巨体に金毛が袈裟懸けに生えた凶暴な雄熊だった。
 翌晩の通夜の夜、村人たちが集まった席に、再び袈裟懸けの熊が現れた。運良くその場は発砲の音に驚いて熊は逃げたが、その足で婦女子が集団避難していた家を襲った。
 さすがにこの段階で集落の者は全員がふもとの町に避難したので、その後は人的被害は出ていないが、熊の方は無人の家々を執拗に襲いつづけている。
 7人の死者と4人の瀕死の重傷者をだしたこの事件は、地元の警察はもちろん、軍隊までも動員するかどうかという話にまで発展していたが、事件発生六日後の12月14日午前十時、地元の老マタギによって仕とめられた。30分後、晴天が一転して大暴風雪になった。地元ではこれを「熊嵐」と呼ぶ。この事件を題材にした吉村昭のドキュメンタリー小説の題名も「羆嵐」である。
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●三渓事件についてさらに詳しく知りたいならば、吉村昭のドキュメンタリー小説『羆嵐』が新潮文庫から出ている。
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●三渓事件で惨劇の起きた現場での熊の行動ルート図(木村盛武『エゾヒグマ百科』)

 被害者となった重傷者の中に、子どもが一人いたが、奇跡的に一命をとりとめた彼は大人になって熊専門のマタギになる。彼の子どももまたハンターとなり、親子2代で追いかけた末に仕留めたのが身長2.5メートル、体重500キロの幻の大熊「北海太郎」(羆としては日本記録)である。
 グループの話はさまざまな熊談義になった。冒頭で紹介した6人殺しは大正の北海道開拓使時代の話だというので少し、ほっとしたが、僕が生まれた年代ぐらいまでは、さまざまな悲惨な事件が起こっていた。
 最近では少なくなったとはいえ、宿のおばさんも二、三度は実際に怖い思いもしたと言う。飼い犬が狂ったように同じところをぐるぐるまわりだしたとか、飼い主を捨ててひとりで山を下りてしまったとか、熊が近くにいるときは、ものすごい匂いがしてくるとか、そんな話だった。
「ケモノの匂いていうんかなあ。なまぐさ~いのが風にのってねえ。なんかいやあ~な感じでね、みんなで顔を見あわせた。やっぱ人間にも動物の直感みたいのがあるんだろねえ」
 先の7人殺しの話は小説にもなっているし、映画化もされたというので、北海道から帰った僕はさっそくその本を図書館で探した。
 本を読んで僕は熊に対する認識がまるで変わってしまった。およそ地上に生まれた生物で、これほど完成度が高く、最強の動物がいただろうか。軽トラックほどの速度で走り、火を恐れず、牛をもなぶり殺す。(どんなに強靱な男でも、素手で牛をまっぷたつにできる人間がいるだろうか?) 嗅覚が鋭く、狡猾。警戒心が強い反面、好奇心と執着心も異常に強い多面性。アイヌがヒグマを山の最上神として崇拝したのも当然だろう。
「苫前に行けば、事件の場所とか、いろんな資料が残ってるよ」

 その苫前(トママイ)という単語は、夏のあいだじゅう、僕をどこかで捉えていた。今年、二度目の北海道へと向かわせる大きな原動力だったことは間違いない。稚内からオロロンラインを南下し、昼前についに「苫前」の地名が道路案内板に見えた。そのときから僕の緊張は糸を張りつめたようになっていた。